2013年9月12日木曜日

時事音痴/栃木行 その1

 すでに年明けて時も経ったので昨年の話になってしまうが、12月21日から6日ほど、栃木に滞在してきた。

※(校正者注:311前まで栃木県に住んでいたが原発事故の後、西日本へ避難した)


 残してきた荷物を処分して、家を売却する手続きをとるためである。それからもうひとつ自分に課していたのは、栃木で縁のあった人達への、せめてもの誠意がある別れだった。

「自分に課す」

なんていうと、とても大袈裟に聞こえるかもしれないが、「絆」という言葉が昨年の流行語大賞に選ばれている風潮のなか、「絆」をぶった切って早々と逃亡した人間は常に後ろめたい。

たとえそれがわたしのなかで最良の解答であっても、だ。

これは西の土地に住んでいる人には理解しにくい感覚かもしれないが、わたしにとって栃木の人たちとの別れは、自分なりの課題だった。

 昨年の5月に栃木に戻ったときは、若干の荷物を運び出しだすだけの手配はしたものの、その選別だけでわたしは精神的に困憊した。
 荷物を限界まで絞ったのは、汚染物質の運び屋になるのに強い抵抗があったからだ。
 とはいえ、わたしは全ての持ち物を手放すだけの勇気も経済力もないし、個人で除染をするといっても、おのずと限界がある。
 確実に汚染物質を運んだだろう。これもまた、とても後ろめたく感じている。

 5月のわたしは情けないことに、運び屋になる自分を責めて鬱々とするばかりで少しも前向きになれず、周囲の人達との別れをなおざりにした。挨拶周りをすることはしたが、ほとんど遁走するような別れだった。

 わたしたちの就農のために市役所の職員の方々を集合させ、会議まで開いてくれた小山市長の大久保氏、そして温かくわたしたちを受け入れ、営農集団に誘ってくれた集落の人々、なにより、いつも良き農業の指導者であってくれた有機農業界の顔、栃木太陽の会の信末さんに合わせる顔がなく、儀礼的に別れを告げて慌しく栃木を離れてきた。

 12月20日、早朝に高知を出発するつもりが夕方になった。


 なかなか覚悟が定まらなかった。だけどわたしは知っている。


 この借家に運んだわずかばかりの荷物の梱包が、いまだ全部は解かれずに残されている理由をだ。うまく言えないけれど、テンポラリファイルの処理ができていないからパソコンをシャットダウンさせられずにディスプレイを呆然と眺め続けているような、そんな感じで、次に進めずにいる。
 薄暮のなかでようやく自分を奮い立たせて、パソコンとケータイ、若干の着替えを車に乗せて高知を発った。逃げないこと。向き合うこと。せめてわたしの可能な限りに。心のなかで自分に言い聞かせるのに、瀬戸大橋を渡る頃にはもう高知に逃げ戻りたくなっている。こういうときに自分の今までのつけがまわってくる。人として成長する苦しみを避けてまわっていたのを思い知らされてしまう。

 その日は大阪で一泊になった。名古屋までが目標だったのだが、案外、進めないものだ。こういうときにやっぱり便利だなと思うのが、PCを使った公衆無線LANによる宿泊予約だ。豊洲に住んでいたころは、タリーズだのプロントだの珈琲館だので気分転換しながら原稿を書くのに無線LANを多用していたのだが、高知に来てからはさっぱり機会が減った。そもそも、14km先まで行かないと、カフェがない。しかし様々な通信手段を確保しておくというのは災害時に強いような気がして、解約を思いとどまってきた。

 ホテルの近くで、てっさを食べた。なんだかTwitterでいちいち「大阪なう!(かなり古い表現だなあ……)」とか、旅行のあいまにつぶやかれているように感じるかもしれないが(わたしはフォローしている人にこれをやられるのが嫌で、Twitterのアカウントを削除した)、思うところがあって書いているので、少々お付き合いいただければ幸いです。

 わたしは現在、高知の山間部で暮らしているわけだが、食堂での定番メニューが「しし丼」なのである。そう、イノシシである。祭りのときは「しし汁」、消防の集まりでも「しし汁」。うっかりしてると、散弾銃の玉を噛む。山野で育ったイノシシを仕留めるのは害獣の駆除の効果をもたらすだけでなく、山間部にたんぱく質を供給する行為ともなっている。とはいえ、元々はイノシシばかり食べていたわけではない。大阪人の父を持つわたしは、年末も近づけば「てっさ」である。てっさと、ひれ酒。これでようやく「ああ、今年も暮れがきたなあ」という気分になれるというものだ。
 ところが、だ。
 久しぶりの美食は悪くはなかったけれど、なんだか不思議な気がした。


 かつて確かにわたしはこういうものを食するのを楽しんでいたはずで、それをなぞっているはずなのに、当時の心境と重ならないのだ。なにかに戸惑っている。たぶん、理由はふたつあるのだろうと思う。物資というものが極端に貧弱な地域で暮らしている上に、わたしは自分の口に入るものには比較的鈍感でも(汚染された食品をネットジャーゴンで「ベクレている」と表現するが、わたし自身は食品が多少ベクレていても、あまり気にしない。まあ、少しは不気味だなと思うが)、相方の食への責任はそれなりに感じている。だから「手に入らないもの、汚染の酷そうなものは、そもそも無かったものと思え」と自分に言い聞かせているうちに、本当に「無かったもの」と思い込み始めていること。それから、わたし同様、ふぐを食べている人たちが、現在の食の危険性をどう認識しているのかの、ぼんやりとした疑問があった気がする。



 美食というのは、それほどまでして追求するものだろうか?



 さほどベクレていない食品でも、現代の日本では、それなりに美味だと思うのだが。

 料理はひとつの文化だと認識してるし、それを貶めるつもりはない。

 むしろ今回の事故で失われる可能性が大きい、日本の食文化の今後を憂う。出汁の重要性があまりにも高い食文化であるのに、シイタケは放射性物質を集めやすい性質を持ち、いりこやカツオの恵みをもたらす海は高濃度で汚染された。世界から一目をおかれた健康的な日本の食文化は、真剣に食の安全性を考えるならば、残念ながら根底から変わらざるを得ないと感じる。

 しかし、原発事故の直後、国が定めていた暫定基準値の500Bq/Kgは、全面核戦争に陥った場合に「餓死」を避けるためにやむを得ず口にする食物の汚染上限だという。現在はその基準値が徐々に引き下げられているとはいえ、以前の基準値に戻る日、というか、以前の基準値を満たしていたとしても、この国土に汚染がほとんど無かった時代の食物の安全性を取り戻せる日は遥か未来のことだろう。なのにこの国の都市に来れば、外食産業は美食を楽しむ人々で溢れ、「飢餓」など、まるで無縁の生活を送っている。

 それがわたしには、とても奇妙な光景に映った。

 なんだろう、この違和感は。

 変わらない日常。それを大切にする気持ちはわたしも同じだ。だから世界で何事が起きようが、淡々と昨日の連続を生きる選択をする人たちがいるのもまったく不思議ではない。ただ、震災後、たびたび耳にするようになった「正常性バイアス」という概念については、一度は考えてみたほうがいい気もした。


 念のため補足しておくと「正常性バイアス」とは、外界の強烈すぎる刺激に対して理知的動物がそれを心理で抑制して、慌てないようにしてしまうことを指す心理学用語らしい。これは日常性を保護するために必要な心理的措置なのだそうだが、度が過ぎると「本当の危険」にも対処できなくなるという。




 ここでまた余談になるが、わたしが原発事故の直後、「正常性バイアス」という言葉も概念もまだ知らなかったけれども最も本能的に毛嫌いしたのは、「理性的」であることをさも誇らしげに他者に押し付けようとする人達だった。
 わたしの過去の友人であった女性は「パニックによる行動のほうが災害そのものの被害よりも、被害を甚大にすると教えられたではないか。関東大震災の歴史の教訓から、なぜなにも学べなかったのか」とわたしを罵倒した。その後、伝え聞いたところによると、いまだ彼女は「原発については様子見です」と語っているという。こういう「理性的な大人」の論調が、子供たちの被害を拡大しているようにわたしには見える。

 それからもうひとつ、わたしからの反論である。

 今回の震災による大地震のあと、「理性的に」行政の津波の高さの予測に従い、3mの高さまでしか避難しなかった人々はどうなったのかを考えて欲しい。



悲しくはならないか。



 震災で全国的に広がった「津波てんでんこ」。これは三陸海岸に伝承されていた言葉で、記憶がやや曖昧なのだが、わたしが最初にこの言葉に接したのは吉村昭の名著、『三陸海岸大津波』だったように思う。
「三陸海岸大津波」は、明治29年、昭和8年、そして昭和35年の三たびにわたって三陸沿岸を襲った大津波を記録や証言をもとに再現した書で、わたしはずいぶんと衝撃を受けた。
 わたしはこの本の影響もあり、学生の頃から幾度か三陸海岸を訪れた。無論、厳しい自然だからこそ保たれていた三陸海岸の美しさも好きであったからなのだが。
 津波で幾度か一村全滅しかけた歴史のある田老町の、スーパー防波堤の上を歩いた。地上高7.7m、海面高さ10m、総延長2433mという、鉄壁の防波堤であった。この防波堤の幅はなんと3m。均台の上を歩くのも恐怖なわたしが、高さ7.7mの上をのんびり歩きながら、田老町を見渡せた。田老町は、この防波堤の存在で、町が日陰になるほどだった。
 しかし今回の震災による大津波で、このスーパー防波堤は、約500mにわたって、一瞬にして瓦解したという。


 津波てんでんこ。


「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」


多くの経験から生み出された知恵のほうが、スーパー防波堤を凌駕したのだ。

「理性的」であることを誇る人々よ、「パニックになって逃げ惑う愚民」を見下す人々よ、こうした歴史の教訓からは、なにも学ぶものはないのだろうか。

 しつこいようだが、もう少し余談を続けさせてもらう。

 今回の大津波で注目したい人物に、茨城県大洗町の小谷隆亮町長がいる。

 町長は、役場の自室から海の白波の立ち方でただ事では無いと判断し、防災マニュアルに従わず、防災広報に連絡して「緊急避難命令!」と連呼、そして「速やかに避難せよ!」と、もう一段強い言葉で住民に避難を促したという。

 わたしは栃木と茨城の県境に住んでいたこともあり、ちょうど震災の五日前に大洗の岸壁で釣りをした(ちなみに、完全な「ぼうず」」だった。周囲の人も、みな一匹も釣れていなかった。別に地震や津波とは関係ないのかもしれないが、あるいはと思うので、記録として)。ところが震災当日にテレビの映像で、その岸壁が飲み込まれていくのをリアルタイムで目にした。しかも高さ5mの大津波であったことを知ったときには、

「あ、この津波が五日前だったら確実に死んでたな」

と思ったのだけれども、後に、この小谷町長のいわば「パニックを煽る」通達のおかげで、大洗は車や家の被害はあったものの、犠牲者が出なかったのを知った。一方、通常通りマニュアルに従い「津波警報が発表されました」と連呼するだけだった自治体では、多数の犠牲者が出た。

 もっとも、わたしも人のことをとやかく言える立場ではない。原発事故には過敏でも、田老町のスーパー防波堤の上を歩いたときに、

「これでもう田老町は津波に勝利しただろう」

と感じた身なのだから。これはわたし自身への戒めでもある。あの日、わたしが田老町を旅行中の身だったとしたら、「津波てんでんこ」など忘れて、スーパー堤防に安心しきって津波の被害に遭っただろう。
 翌朝、大阪を出発しようとして悩んだ。大阪の環状線を抜けてしまったら、いよいよ東名道である。
 高知で手土産の柚子を用意したが、わたしは高知を経つ前から信末さんのことをずっと考えていた。一昨年の夏に素麺を贈ったら、

「山崎マキコは俺に饅頭をくれるって言うから楽しみにしてたのに、素麺を送ってきた! 俺は素麺嫌いなのに」

と、わめいていた。あれは頭が痛かった。柚子は絶対、ウケない。

 甘いものが好き、でも、かりんとうのような硬いのは嫌い。とりわけあんこが好き。さてなんだ?
 都市のほうが美味しいものは手に入りやすいわけだが。だから大阪で入手していったほうがいいのだろうが。甘くて柔らかいもの。難題である。贈答品の定番、虎屋の羊羹にしておいたら無難かなとも考えたのだが、最近思うのに、こういう、それなりの価格のものを贈り物に選ぶというのは、なにかの嘘が混じるように感じる。そこには体裁を整えておきたいという見得や、あるいは損得勘定、普段の無礼を品物で威圧してごまかすといった気持ちは含まれていないといえるのか。
 そうこう悩んでいるうちに、ふと、三重に住む友人を思い出した。そうだ、三重の隣の愛知県、名古屋あたりを通過するときに彼女にケータイで一言だけ挨拶しようか。
 その瞬間、電撃のように思いついた。


 そうだ、赤福!


 あれならもしかすると、信末さんの笑みがまた見られるかもしれない。そして、わたしの気持ちにもまた、嘘がないと胸を張れる気がする。
 環状線を抜けてもらったところで、相方からハンドルを譲り受けた。
 走ろう、東名道。栃木に、小山に行くのだ。
 少しずつ、東へと近づいていく。相方が助手席で眠りこけているあいだに、途中のサービスエリアで赤福を買った。



 それにしても遠いのだった。



 浜名湖で相方に運転を代わってもらおうと思っていたのに、名古屋を過ぎても延々続く東名道。金正恩が少年の頃にお忍びで来日して、新幹線が大好きになったというのも納得である。長いよ、大阪、東京間。

 浜名湖目前で泣きが入った。どう頑張っても注意力が保てない。

 わたしは3月15日に決断して小山から避難したのだけれども、あのときは北陸道を一晩中走れた。あの日、夕方に小山を発ったのに、翌日の昼には岡山に到着した。助手席で30分も仮眠を取れば、頭が冴え冴えと覚醒した。火事場の馬鹿力というのは一回こっきりだと、運転しながら思った。

 予定より早く運転を代わってもらった。しばらくすると、富士山が見えてきた。やはり、東の象徴の山だ。仕事で樹海を歩いた思い出や、同じく仕事で富士五湖でバス釣りをした思い出が蘇えってきた(ずいぶんと昔、ニンテンドーのゲームボーイで、魚群探知機ポケットソナーという商品が発売になった。それが使い物になるかどうかを試す、という仕事だった)。さまざまな思い出が、この山に染み付いている。





 やはり富士山は美しく、それだけに悲しかった。





 わたしは原発事故のあと、なにかにつけ怒っていたわけだが、いまはなぜか、誰も責める気がしない。


この国のエネルギー政策を正せなかったすべての人、無論、わたしを含めてだが、それぞれに大なり小なり罪があるように感じられる。ただ巻き添えになった次世代に申し訳なく思い、そして汚染された国土が悲しいだけだ。

 小山への道中、首都高を降りて、都内で食事を済ませた。
 十九の頃、『東京に原発を!』という広瀬隆の著書を読み、「都市部の人間は地方の人間の顔を札びらで叩いた」と若い怒りをたぎらせた。そのくせして自分自身はすでに首都圏に住み、冷暖房に電気を用いた。思えばずいぶんな矛盾だ。


 都市部の人間だけを責めるのも何かが違うし、電源三法交付金に飛びついた自治体の住民を責めるのも、同様に違うと感じる。東京のあちこちにホットスポットがある。福島にも、無論、ある。この事態を前にしてどちらか一方を責めたとしても、ただのガス抜きにしかならないように思える。


 夜半、小山に到着した。
 まだ一年も経っていないというのに、かつてこの街に住んでいたというのが、いまとなっては夢のなかの記憶のように感じられた。


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