2013年9月12日木曜日

時事音痴/栃木行 その5

 更新のあいまに、一郎さんのことを思い出していた。

 集落でいちばん物静かで、そして農業に真剣だった一郎さんについてだ。

一郎さんの畑のひとつはわたしたちの家の境界線のむこうにあった。一郎さんはその畑で淡々と作業に励んでいた。一郎さんの白い軽トラックが去っていくのを見て、わたしはたびたび夕暮れに気づいた。

 ああ、一郎さんが、今日もその務めを終えて帰っていく。

 一郎さんは、往年の映画俳優だと言われたら信じてしまうような整った風貌の男性だった。

白髪交じりの髪の毛も、年齢なりに下がった口角も、むしろ魅力になっていた。一郎さんの奥さんはロシアの民芸人形、マトリョーシュカのような女性で、初めて一郎さんと奥さんが一緒にいるのを目撃したときは、正直、違和感を抱いた。だがやがてその理由を察した。

 わたしはよくパーコレーターでコーヒーをわかして庭に出た。

一郎さんの姿を見かけると、コーヒーを飲みませんかと声をかけた。
こちらは素人だから、作業の邪魔になっているかなっていないかの判断がつかなかったのだが、一郎さんはその時の状況に応じて、誘いを断ったり、受けたりしてくれた。
 おかげで気軽に声をかけられた。断れない人だったら、こちらとしても声がかけにくい。
人の好意というのは、案外、上手に受け取るのが難しいものだが、一郎さんはごく自然に受け取れる資質を備えていた。

 一郎さんは、とても美味しそうにコーヒーを飲む人だった。無口な人なので、コーヒーの味についてなんて語りはしなかったけど、一杯のコーヒーを楽しんでいる様子が伝わってくるので、わたしも静かな時を過ごせた。

 そんなことがあると、後日、必ず奥さんが満面の笑みを浮かべてわたしにお礼を言った。
 
「このあいだは、お父さんがお世話になって」。

一郎さんの奥さんは、自分になにかしてもらうよりも、夫である一郎さんが大事にされることのほうを喜ぶような女性なのだなと、次第に理解した。
 わたしは奥さんにお礼を言われるたび、一郎さんがその日の出来事を奥さんに伝えていることと、そして一郎さんにとってわずかでも良いことがあると、それを嬉しく思う奥さんがいることを、知った。


 
かつて、父がわたしに伝えようとした言葉を思い出した。



「なあ、俺は、本当に偉い人っていうのは、歴史上の人物だったりしないんじゃないかと思うんだ。本当に偉い人というのは、市井にいて、だれに認められなくても、だれに知られなくても、静かに自分の役割を果たして生涯を終えるんじゃないかなあ」


 そのころわたしは司馬遼太郎に夢中で、『坂の上の雲』を通読したりとかして、ご他聞に漏れず、秋山兄弟に入れ込んでいた。
父もわたしの影響で司馬遼太郎の本を片っ端から読んでいた時期だったのだが、途中でなにか考えるところがあったようで、こんな言葉を紡いだのだ。
 そのときは自分が夢中になっている対象を否定されたような気がして不快だったのだが、それでもなにか考えさせられるものがあったらしい。

 生きていくうえで何がいちばん真剣に追い求めるべきものなのか。

 世間の尺度ではなく、自分の基準で、はからなければならない何か。それがこの世には存在しているのではないか。父がわたしに遺したのは、そんな問いかけだったように思う。
 あの日、最初に栃木の家を訪れてくれたのは一郎さんだった。あとでよくよく振り返ってみると、一郎さんはわたしたちが戻ってきたのに気づいたときに、ある種の危機感を抱いて駆けつけてくれたのだろうと思えた。

 わたしは、どうして一郎さんがわたしたちを庇ってくれたのか、とても不思議に感じていた。
 一郎さんの人柄の良さは重々承知しているし、確かに庭で一緒にコーヒーを飲んだりもした。だがそれだけで全てを説明するには、わたしたちと一郎さんの接点がなさすぎた。そもそも、わたしたちは、あの集落に半年ほども暮らせなかったのだから。
 ぼんやり振り返っているうちに、あの三月の混乱のさなかの断片的な記憶の映像がふいによみがえってきた。

 海苔だ。たぶんそうだ。あの韓国海苔だ。

 そうか、一郎さんは、あの韓国海苔のことを憶えていてくれたのか。
 たったそれだけのために。


 2011年3月15日、福島第一原発三号機の爆発を知ったわたしは、決断した。
 夫を、逃がさなければ。


 当初、わたしは政府が避難範囲を次第に拡大していくのだろうと想像していた。だからわたしは行政の指示があったら、それに従おうと思っていた。しかしこの国が原発事故に際して選択した(そう、不可抗力ではない。これは、国の意思が働いている)方針は、常にわたしの予想の斜め上を行った。

 一向に拡大されない避難範囲。

 福島県民は棄民された、と感じた瞬間だ。
 もう待っていられない。フォールアウトにむざむざ晒されている暇はない。
 西に走ろうとしてキャンプ道具と通帳や印鑑など、最低限の荷物を車に詰め込み、家を出ようとしたときに、夫がふいに言い出したのだ。

「一郎さんにだけは挨拶していこう。俺たちは家を空けるって」

 信末さんの紹介で一郎さんと知り合ったという経緯もあったのだが、なにより、近隣の人のなかで、わたしたちが頼りにしていたのが一郎さんだったんだろうと思う。
 具体的になにかしてもらうというより、精神的な支えという意味で。

 連続する原発の爆発。どこまで被害が拡大するかなんて、まったく見えない。
ここに帰ってこれるかどうかも怪しい見通しだとわたしは感じていた。
 この事態に危機感がなかった人から見ると、なにを発狂しているのだと思われそうだが、残念ながら、わたしはこの事態を甘くはみていない。とても、残念なことに。民主党元代表の小沢一郎の「福島の分は日本の領土から減った」、「ここまま行けば東京は人が住めなくなる」という発言は、わたしは事実だと思う。彼は、とてもリアリストだ。ただ事実をみつめて、発言しているだけだと思う。多くの人間が差し迫る危機から目を逸らそうとしているなかで、彼はただ、リアリストとして発言したのだと思う。

 わたしはこのまま別れになる可能性があることを、夫の言葉で気づかされた。

「そうだね、一郎さんにだけは挨拶していこう」

 いずれ一郎さんから、信末さんにも伝えてもらえるだろうと思った。わたしは逃げると決めたとたんに、ありありとした恐怖に晒されていた。

 あとで夫から、

「3.11のあと、マキちゃんが毎日ちゃんと寝てたから、どうして眠れるんだって驚いてた」

と言われたのだが、寝てないといざというときに体力が持たないと考えていたからである。恐怖に関しても、いま感じてはまずいと察していたからである。自分の体験から考えるに、人は正しい情報さえあれば、意外とパニックをコントロールできるものである。わたしのような凡人でさえ、だ。
 一刻を争うような緊張感のなかで、わたしたちは一郎さんの家に立ち寄った。広い門扉を走りぬけ、エンジンをかけっぱなしで停車した。
 一郎さんの家はいつも施錠していないので、引き戸をあけて、

「すいません! 山崎です」

と声を張り上げた。奥さんが現れ、それに続いて一郎さんが現れた。
 あとで考えてみると、一郎さんも奥さんもこの時期、農作業をやめて、伝えられるニュースに見入っていたのだと解る。あのときは、午後三時ごろであったはずなのだ。
 そこで、一郎さんと奥さんに、何をどのように話をしたのかが、記憶から欠落している。ただ、ありありと記憶に残っているのは、廊下のむこうからあどけない顔の一郎さんのお孫さんが玄関にむかって歩いてきたことだ。

 はっとした。

 まだ幼い子供が、放射性プルームにむざむざと晒される。ヨウ素剤はこれから行政によって配られるだろうか? この流れでは、大いに疑問だ。

わたしが記憶していたことが正しければ、チェルノブイリでは4、5年後に、甲状腺がんが多発した。
確かに甲状腺がんは生存率の高い病だとはいえ、一生、ホルモン剤の服用を余儀なくされるのだ。
 甲状腺がんなんてたいしたことないという主張は、「足を切られても、命は助かったのだから平気でしょう?」と言うのと、まったく変わらない。

 わたしは一号機の爆発のあと、韓国海苔を買い求めた。非常に気がとがめた。これは幼い子供に食べさせるものだと。
しかし、自分は食べなくても、夫に食べさせたかった。幸い、夫は、海苔をよく食べる人だった。お菓子のように、海苔をぱくぱく食べる。舅はよく心配していた。
「甲状腺に異常が出そうなほど食べる」
と。

 夫はわたしが韓国海苔を炬燵の上においておくと、別になんの疑問もなく、勝手にパッケージをあけて食べていた。
 夫はチェルノブイリとかにまったく興味がなかった人なので、わたしの意図には気づいていなかった。よくわからず、口寂しいから食べている。
 説明するとかえって食べなくなるような人だと判断していたので、なにも告げなかった。
その海苔のストックが、車に積んであるのだ。道々、夫に食べさせようと思って積んできたのだ。

 わたしは慌てて玄関から飛び出し、車に戻って韓国海苔のパックを手にした。そして一郎さんのお孫さんに手渡した。


「僕、ね、これからね、この海苔を食べて。あのね、これね、将来病気にならないようにするためのものなの。好きじゃなくても、食べて」


 お孫さんは、受け取ったものに不満げだった。普通、お菓子とかくれるのに、なんで海苔なんだ、という顔だった。
 それはそうだ。子供がこんなおかしな事態に巻き込まれるほうが、あってはならないことなのだ。
 華奢な子供の両腕を、無意識に両手でつかんで、

「ね、僕、食べて。お願いだからね。おいしくなくても、食べてね」

と頼んだ。わたしの視界の端に、わたしの必死さに、おぼろげながら動揺を感じ始めた一郎さんの表情があった。





 ここで記憶は途切れている。





 無闇に人の不安を煽るな、というのは、原発事故以降、わたしにしばしば投げかけられた言葉だ。わたしのこのときの行動を、批判する人がいることも承知している。

 しかしわたしが不思議なのは、津波の危険性については、「住んでいたことがそもそもの過ちで、とっくに高台に移転しておくべきだった」という意見はすんなり通っても、放射性障害のリスクを可能な限り避けようという呼びかけは、「感情論」だとして退けられる。どちらも本質としてはリスク回避であるのに、どうして片方だけが感情論と言われてしまうのかが、わたしには理解に苦しむ部分だ。「そんなことを言い出したら、車にも飛行機にも乗れない、一生引きこもっていろ」と、言う人は言う。しかしそれならば、津波も地震の対策も、しないほうがいいのである。どうせ人は死ぬときは死ぬという論調でいえば、である。





 久しぶりに再会した一郎さんは、とても悲しげな目をしていた。


 わたしたちは一郎さんが、わたしたちが家に着くなりに訪ねてきてくれたことにとても驚いていたのだが、一郎さんの側はどうも違っていたようだ。この感覚はうまく伝えにくいのだが、幾度か自分のなかでシミュレーションしていたような感じ、というか。わたしたちが戻ってきたことに驚きはなく、ただ、予期していた日が訪れた、というような。
 お久しぶりですという挨拶を交わす間もなく、一郎さんがうつむいてボソッと告げた。


「夏のあいだに、一度、草は刈ったんだけどね……」


 意味がよく解らなかった。やがて、一郎さんが、わたしたちの家の庭の雑草を刈ってくれたということが判明した。

 わたしは栃木の家に越してきた当初のことを憶えている。
 競売物件だったこの家は荒れ果てていて、内装のリフォームが必要だったのは無論のことなのだが、庭も荒れ果てていた。庭を歩くと、チクチクとする植物の種子が、足回りに沢山ついた。わたしは庭の手入れを楽しむような感覚は持ち合わせておらず、腹が立ってならなかった。もともと庭に関しては夫とかなり意見が対立していた。夫は、「お庭が大好き」と言う
 マンション住まいだったころにしょっちゅう夫に言われてむかっ腹が立った言葉に、「このおうちにはお庭がない」というのがある。

 姑はわたしと大変対照的で、優しく、たおやかな女性である。
 縁側で庭を眺め、季節の移り変わりを楽しむのである。そういう姿を見て育っているから、夫はごく自然に、庭を愛する心を持ち合わせたのだと思う。一方のわたしの母親といえば、隣の家が空き家になったとき、「隣の土地は借金してでも買えっていうのよ!」と言い出したのはまあしかたないし、空き家を解体したのも目を瞑るとしても、もともとの持ち主がとても愛していた薔薇の木々を、業者に依頼して全部なぎ払い、あろうことか井戸まで潰し、駐車場にしてしまったのである。これはさすがのわたしですら、いかがなものかと思った。井戸を埋めると不吉に見舞われるという言い伝えがあるが、わたしは母に不幸があるたびに、

「井戸を埋めたせいなんじゃ……」

と思ってしまう。しかし確かにわたしは母と親子で、庭なんて邪魔なだけなんだよと思う。
 で、越してきた当初、激怒しながら庭の雑草をむしったのである。
 これから庭にどれだけの労力を奪われるのかと思うと、非生産性なことこの上ないよと激怒した。
 それはまあいいのだが、どうして一郎さんがわざわざわたしたちの家の庭の雑草を刈ってくれたのか? 本当に意味がよく解らなかった。

 とにかく上がってください、なにもないけど、というようなことを、一郎さんに伝えたように思う。一郎さんとわたしたちのあいだに特に会話がないのに、一郎さんは玄関から去らなかったからである。むろん、丁重にお礼は述べたのだが、わたしも夫も、まったく状況が把握できなかった。密かに夫と顔を見交わしては、困惑していた。

 その後に起こったことは、わたしたちが地方における暮らしというのにかなり無知であったことを差っぴいても、明らかに異様だった。

 それをここで再現するのが、とても気が重い。
 おかげでわたしは、ディスプレイを眺めながら、延々とため息をついている。
 どうしても細かに再現する気になれないので、要点だけ書くと、このあと、わらわらと集落の人たちがわたしたちの元を訪れ、わたしたちに罵詈雑言を浴びせかけたのである。草をはやしっぱなしにしているから虫が飛んできたとか、街路樹のせいで畑が陰になったとか、激怒して言葉を選ばず罵倒してきたのだが、もともとはこの家が競売物件で、しばらく空き家で、わたしたちが越してきた当初にそうとう手を入れたことを考えると、相手の言い分の正当性にわたしは疑問を抱かざるを得ない。

 一郎さんが、とても悲しそうな目で、集落の人たちを見つめた。無言のまま。するとようやく、相手は気まずそうに押し黙る。そんなことの繰り返しだった。


 一郎さんは、わたしたちを庇うためにここにとどまっていたのだ。


 そんなことを察した。

 おそらくは集落での行事があるたびに、わたしたちへの周囲の怒りが燃え上がっていたんだろうと思う。

 これは悲しいかな福島でもしばしば見受けられることのようだが、原発の推進役であった経産省や、その配下にあった東電に怒りを燃やす以前に、留まらなかった者に怒りをぶつけてしまうのである。身近であるというだけの理由で。そしてそれはまた、不思議なことなのだが、集落の機能を維持しようとか、地域の農業を守っていこうとか、そういう意識が薄かった人のほうが、そうであるのだ。


 突然、手のひらを返したように、郷土愛をわめきたてる。
 それは寒々しい光景だ。
 それぞれが、沈没していく船から、逃げ出さないように相互監視しているのである。恨みの眼差しで。


 3.11からちょうど1年経った日に、友人が言った。

「人間の醜さを見せつけられることに疲れた1年だった」

と。まさにそうなのである。テレビでは復興における人間同士のつながりの美しさばかりが強調されるが、綺麗事過ぎて、わたしにはついていけない。馬脚を現すという言葉があるけれども、わたしはこの故事ことわざの意味は知っていても具体的なイメージがわかないので、自分なりにこの感覚を説明すると、津波で海の底に溜まっていたものが一気に波の勢いで浚われ、地上にぶちまけられて、あらわになった塩化ビニールのごみの山、というか。ああ、この人の腹のなかには、こんな産廃が溜まっていたのか、という。薄々は感じてはいたのだけれども、やはり、という感じだ。



 一郎さんは、ただ、たたずんでいた。
 悲しげな眼差しで。



 わたしは罵倒されている自分たち以上に、孤独を感じているのは一郎さんなのではないかと思った。この醜さを見て、なにを感じ、どう思うのか。気が重たかった。
 なかにひとり、あまりにもヒートアップしている人物がいて、その人物に対して、

「おい、おまえ、さすがに言葉を選べよ」

というように押さえにまわった人もいたのだが、むしろそれが怒りの炎に油を注ぐといった調子で、どれだけ吼えても、吼えたりない様子だった。

 事実はとてもシンプルだ。
 四十代の夫婦が、1年弱、家を空けた。
 これだけである。

 果たして、これが仕事の都合だったとしたら、ここまで糾弾されただろうか?
 わたしにはとても疑問だ。


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